こんにちは。
面倒くさがりの主婦です。
日々、苦手な家事に奮闘しながら生活しています。
結構前にこんなニュースを観ました。
「一緒に住んでいる人にうつ病やその他の心の病気、または自殺しようとした人がいる」などの質問事項を含んだアンケート調査を小中学生に行った。
そのアンケートの内容について、保護者から「子供が傷つくのではないか」「失礼ではないのか」と言うような苦情が出た。というようなニュース。
私はこのニュースを見た時に、このクレームが正しいかどうか判断できませんでした。
理由は実際問題として、ここまで詳しく聞く必要があるとも思っていたから。
「小学生が家族のうつ病に気付くわけがない」と言う意見もあったようですが、これについては私は否定します。
気付きます。子供は敏感ですから。
うつ病だ、とはいかなくても『なんか変だな』とは感じるはず。
じゃあ、実際これがうつ病だ、とか心の病気だとどう気付くか。
そのためにここまで突っ込んで聞かないと判らないから聞いてるんじゃないでしょうか?
ここ最近はヤングケアラーに対するポスターもよく目にします。
先日遊びに行った答志島の港の待合室でも見かけました。
これは私の考えなんですけども、
ほんとにほんとのヤングケアラーって自分で気付いてるのかな?と常々思っているんです。
大抵気付いてないんじゃないでしょうか。
だって、それが彼らにとってあまりに日常だからです。
子供は学校で他の子供たちと関わります。小さな社会です。
この小さな社会でわざわざ家の暗い部分を話す子がどれほどいるでしょうか。
話さなければ比べられない。話しても比べられない。
だから気付かせる為にこういうポスター貼ったり、極端に感じるアンケートを取っているんだと思うんです。
私もそうでしたから。
またまた私事になってしまうので、興味のない方、暗いお話が苦手な方は是非スルーしてください。
私の母は私が14歳、中学2年生の時に鬱病を発症しました。
恐らく鬱病だけでなく、境界線パーソナリティ障害とかもあるんだと思うのですが、
まぁその頃からそれはそれは色々ありました。
常に包丁は隠されていたし、母はいつも暗い部屋の隅で泣いていました。
けれど、私達には祖父母がいました。
ご飯は祖母が作ってくれるし、必要な送り迎えや手続きは祖父がしてくれます。
どうしても、という時は母がやってくれますが、それは調子が良かったらの話。
週末になると母の部屋に呼ばれて『どれだけ男が信用ならないか』『どれだけ自分がつまらない人間だったか』を泣きながら私達に話して聞かせます。
「母さんが悪いのか?」と聞いてくると、いつも私たちは「母さんは間違ってないよ」と返しました。
お風呂にも一緒に入り、一緒の布団に寝て、変な気を起こさないか常に見張っていました。
もちろん症状の波はあるのですが試験前など関係なくその時はやってきます。
その間祖父母は普通に寝ています。
母を祖父母が怒ることはありません。
お小言のように、『良い加減子供の事を考えろ』程度のことは言っても母に響かない事を知っていたから。
母が暴れると「母さんがかわいそうだ。どうにかしてあげてくれ」と私達に助けを求めてきました。
それでも仕事をしていたのは母だけでした。
母が仕事に出ないとお金が稼げない。
辛い顔をして働きに出ていました。「あんたらのために頑張る」と言いながら。
私は途中から付き添いも兼ねて、夜は母のスナックの裏でおつまみを作るバイトをしました。
母は彼氏が出来ると鬱が安定しました。
鬱病発症のきっかけも男の人。
けれどその間が私たちの束の間の学生生活。
友達とカラオケに行き、週末も朝から友達と出かける。
母の彼氏と私と兄で食事も行き、楽しく過ごしました。
だけど、別れが来るとまた包丁を隠す日々が始まります。
高校を卒業すると専門学校に通いながら母のスナックに出ました。
母は仕事中でも症状が出るからです。
私がお店に出るようになると益々母は店に出なくなりました。
「今日も母さん出られないからよろしくね」と。
お金のためお金のため、と無理矢理ドリンクを飲んで、無理矢理食事も頼んでもらいます。
人見知りの私は昼間は実習先の患者さん、夜はスナックのお客さんとのやり取りに大きな疲労感を感じました。
もう人間に会いたくないとすら思っていました。
看護師の国家試験の前日に母は包丁を持ち出しました。
真っ裸になって殺してくれと叫びながら。
真正面から母を押さえつけ見つめた顔に、
『あー、この人の目に私は映ってないんだな』と感じました。
叔母には言いませんでした。
なぜかずっと叔母には言いませんでした。
家族内の事は言うべきでないと思っていたし、叔母は関係ないと思っていたから。
朝まで見張って、そのまま試験に向かいました。
道中、叔母からメールが来ました。
「見ておくから安心して試験を受けておいで」と。
心から安心して涙が止まりませんでした。
帰ると叔母は居ませんでした。
一度も家に来ていませんでした。
誰も助けてくれないと気付いたきっかけでした。
私は自分を変えようと思いました。
自分が変われば母も変わる気がしたから。
でもそれは多分言い訳。
きっと私は逃げ出したかった。
母の調子が良い時に運良く上京の許しが出ました。
これは本当に人生を左右する奇跡でした。
母は変わりませんでした。
私たちが結婚しても、孫が産まれても、28年経っても、祖父が死んでも母は変わりませんでした。
愛情は貰った。
いつも褒めてくれるし、いつも認めてくれる。
けれど彼氏が居ない時の母の目には、私と兄は映らなかった。
愛情は貰った。
急に褒めたり、自分を卑下しても称えてくる。
けれど夜には私と兄を祖父母に任せて出かけてしまう。
愛情は貰った。
『あなたのため』から『あなたがいるから』に変わり、
そして、『あなたがいないと生きていけない』に変わった。
最後には『母さんを捨てないで』に変わり、重荷になった。
愛情は貰った。
温かいご飯も、フカフカの布団も、清潔な家も常に用意されていた。
お金もかけてくれた。
高校にも行けた、専門学校にも行けた。
兄は大学は行かせられないと言われたけれど、立派な社会人になった。
けれど社会人の私たちにお金をせがむようになった。
愛情は貰った。
でも1番じゃなかった。
そして今でも1番じゃない。
愛情は貰った。
だから私はいつも母が元気になるための選択をしてきた。
そして努力しクリアした。
けれど、母は元気にならなかった。
愛情は貰った。
だから分からない。
だから気付かない。
だから否定できない。
だから憎めない。
私は幸せな家庭に生きていると思っていた。
そしていつしか、消えて無くなりたいと思った。
死にたいわけでも、なんでもない。
もうこの世から誰も知らないようにフッと消えて無くなりたいと常に思っていた。
結婚し子供が産まれた。
何の条件も必要なく、純粋な愛情を私に向けてくれた。
夫に大事にしてもらえた。
「今日は何を食べたい?」
「明日はどこに行く?」
「今日はお休みだから寝てて良いよ。」
「顔が見たくて早く帰って来たんだよ。」
すぐそばで体温の温かみを感じ、何にも心配しなくて良い生活をくれた。
子供が私のそばで成長した。
子供の迎えを待っている時間があまりにも平凡であまりにも静かであまりにも幸せ過ぎた。
兄も同様だ、と知った。
私達は本当の幸せを知ってしまった。
そして今、いい加減私たちを解放して欲しいと心から願っている。
ヤングケアラーは自分では気付けません。
子供は親に洗脳されます。
大人になるまで気付けません。
自分より大変な人はいる。
自分はまだマシだ、なんて思わないで欲しい。
苦しくて辛いのは間違いじゃない。
苦しいよって言われる方も苦しいに決まってる。
どうか、自分でそれを認めて欲しい。
愛情があっても、寝食揃っていても、ヤングケアラーになり得ることがあります。
その事を周りの大人も気付いて欲しい。
子供は誰もが幸せになる権利がある。
どうかどうか苦しまないで。
ただ、明日が楽しみだと思える子供時代をみんなに過ごして欲しいだけなのです。
誰かに伝わると良いな。
とポスターを見るたびに思うのです。
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